立花隆さんの訃報に接して、知性について考える
こんにちは。
てらぴーだよ。
蒸し暑くなってきた夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
日本を代表する評論家の立花隆さんが、お亡くなりになりました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
また一人、「知の巨人」が亡くなりました。
博覧強記とも言われますが、いわゆる「物知り」とどこが違うのでしょう。
本をたくさん読んでいればいいか、というと違いますよね。
それは、必要条件ではあるものの、十分条件ではないように思います。
右派の論客としてご活躍なされた、渡部昇一さんも、「知の巨人」と形容されるときがありますが、立花さんと並べてみると、その傾向というか、方向性がかなり違います。
なので、単純に比べることはできません。
「物知り」や「クイズ王」と違うのは、その蓄えた知識の運用法というか、自身の中での体系化の違いなのではないかと思います。
それが、アウトプットにも影響している。
物知りなだけの人は、テープレコーダーのように、ただ覚えたことを繰り返すだけ。
そこに新たな組み合わせによる、新しい知見はありません。
対して、知性と言われる働きは、まったく違ったことをアウトプットしていく。
そこにその人の個性であるとか、問題意識が出てくるのではないでしょうか。
「テレビで日本人はみんな馬鹿になる」という「一億総白痴化」を唱えた、評論家の大宅壮一さんがあるとき、集中的に本や資料を読み漁っていたそうです。
それを見たなじみの(確か)編集者が、「何をしているんです?」と聞いたところ、「今度ソ連(当時)に行くので、これまでに集めた本を読んでいるんだ」と答えたとか。
帰国後に書かれたルポを読んだら、本に書かれていたようなことは全くなく、どこまでも大宅壮一の分析であったと舌を巻いた、というエピソードを読んだことがありますが、それが、知性というものなのでしょう。
他人からの知識を蓄えても、出力する時には「自分独自の見解」になっている。
その「消化力」が、知性を形作るのだと思います。
どこかで聞いたようなことをひけらかすのは、誰にでもできるでしょう。
でも、これまでの主要な議論を踏まえて、自分なりの見方に仕上げるのは、並大抵のことではありません。
その強さを持っているのかどうか、それが、説得力ともなるのでしょう。
たとえ知識はなくとも、物事を考える時に必要な視点を提出したり、これまでの議論で欠けているところを指摘したり、そうしたことができるのが、良い知性なのでしょう。
何も、博覧強記である必要はない。
でも立花さんは、それをも目指したかのように、書物を渉猟したのです。
10万冊の本を集め、3万冊を読んだとか。
まさに「知の巨人」です。
1980年代の初め、81年か82年ごろ、有名になりだした立花さんを囲む少人数の集まりがあって、偶然参加することができました。
茶話会のような集まりでしたけど、お話の内容はとんと覚えてません。
ただ一つだけ、文芸春秋に「田中角栄の研究」が連載されたころ、当然ご本人(田中首相)も知ることになりますよね。
でも相手は駆け出しのジャーナリスト、誰も知らなかったそうで、激怒した時の首相は、立花さんが何者なのか調べさせた、というのです。
なぜそのことが分かったのかというと、当時、立花さんのお兄さんが、福岡で新聞記者をしていて、「どうも自分の身辺が調べられているようだ」と気づいて、弟(立花さん)に、「これこれこういう次第だから、身辺をきれいにしておくように」との連絡が入ったというのです。
日本の法律は、解釈次第でどうにでもなる。
なので、飲み屋にツケでもあれば、それで引っ張れる(逮捕できる)、それで「きれいにしておけ」と。
そのお兄さんの身辺を調べていたのが、福岡県警らしい。
時の首相ともなれば、警察を動員して、私的な捜査もできるのですね。
知性というものが、人々の自由や平等をないがしろにする、大きな力に対抗する力となるように、これからの知性もあってほしいものです。