知識から知性へ、ポイントは三つ
こんにちは。
てらぴーだよ。
小雨にしっぽりと濡れた夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
数年前から「教養」ばやりですね。
「教養とは何か」はさておき、教養をつけなくてはならない、といったお勉強本が、何冊も出ています。
その、教養ブームと並んで、独学も流行っている。
つまりはお勉強しろ、ということなのでしょう。
そのための指南書も次から次に出ていて、中には相当分厚くてお高いのにベストセラーになっている書籍もあります。
受験勉強から解放された大人向けに、知識の習得であるとか、生涯学習をテーマにしたものは、昔からありました。
いわゆる知的生産本です。
要は、今も昔も、いかにインプットしていかにアウトプットするのか、その方法をまとめたものと言っていいでしょう。
ただ近年の特色としては、大人の学びに「独学」というジャンルが確立したことと、「正解」を求めないアート思考に注目が集まっているようです。
「自分の頭で考える」も、時代的なキーワードでしょうか。
受験勉強での「正解」への束縛が解き放たれ、自由に考えていいのだと言われてはいるものの、それまでそんなことをしたことがなかったので、「自由に」しかも「自分で」考えるって、いったいどうすりゃいいんだ、と悩んでいる人が多いので、学びの指南書もあれこれと出版されているのでしょう。
知識を蓄えるのは得意だった受験勉強の勝ち組も、こと自分で考える、正解はなしといった場面では、どれだけ地頭の良さを見せられるか、ということが問われているのだと思います。
知識はいつ、知性あるいは教養となるのか。
物知りなだけという人を「あの人は教養が高い」とか「優れた知性を持っている」とは言わないでしょう。
知識の量は、教養や知性にとって、必要条件ではあっても十分条件ではないようです。
僕が考える知性とか教養の在り方のポイントは、「3つあります」(オカダカズチカ)。
ひとつは知識。やはりある程度ものごとを広くそこそこ深く知っておくべきでしょう。
けれども大事なのは、その知識をどう結びつけるか。
知識をまとめ上げていく「考える力」、これが二つ目。
そして、そもそもなぜそのような知識を蓄えるに至ったのか、なぜそのように考えるのか、といったその人の問題意識の在り様、これを三つ目にしたい。
そして、単なる「物知り」と博覧強記の違いって、目的か結果かだと思います。
すなわち、俗に「クイズ王」と呼ばれる人は、とにかく知識を蓄えることが目的なのでしょう。
けれども例えば作家で、あるいは大学の研究者で、「物知り」だと言われる人は、研究を続けていく中で知識が増えていったのだと思います。
職業柄、そのことを調べずにはおれなかった、研究テーマについて考察を重ねる中で、自然とそれぐらいの知識は、結果として身についていった、ということだと思うのです。
そもそもの出発点において、「クイズ王を目指す人」と「作家や研究者といったその道のプロ」とでは、知識習得の目的が違うのでしょう。
したがって、一つ一つの知識の、その統合の仕方も異なってくるのです。
自分が学んだことをどうまとめていくか、物知りなだけでいいのなら、知識はこま切れのままでいいはずです。
でも作家や研究者にとっては、自分が獲得してきた知識の全体像もまた必要になる。
それで、知識と知識をまとめようとする、そこにどうまとめ上げていったらいいのかという「哲学」が必要になる。
もちろんそこに、こうまとめるべきだといった正解はありません。
正解がないというよりは、ばらばらに見えたものをどのような視点でつないでいくのかに、その人の学説のオリジナリティが現れるのだと思います。
知識を知性に高める独学でありたいものです。