データの共有より、アナログなノートが魅力的

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

あれこれ考えている夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

デジタルが進んで、人間の脳までデバイスになっていく今日この頃。

 

あなたの脳は、あなたと共にありますか?

 

デジタルにはとんと疎くて、今時代の最前線がどこにあるのか、さっぱり見当もつきません。

 

安宅和人さんの『シンニホン』から相当経っているはずなのに、何やら日本は相変わらずのようで。

 

でも、時代の最先端では、あっと驚くような変化が進行中で、わたくしなぞは、「まだそんなところにいるのか」と言われそうな見識しか持ち合わせておりません。

 

リモートワークに独学、とくればノートでしょうけど、学んだことを記録したり、覚えるためにまとめたり、自分の意見も加えて再構成したりするのに、ノートは欠かせません。

 

そのノートも、全面的にデジタルに移行しているとの情報にも接していませんし、紙に手書きも人気なようで、この分野では、まだアナログが健在なのでしょう。

 

けれども一部で、あるいは時代の最先端では、脳に電極を埋め込んで、考えたことを文字化するとか、考えただけで機械を動かせるようになるとかの研究も進んでいるようです。

 

ならばそのうち、頭でイメージしただけで、モニターに文字が映し出されていくとか、倣ったことを思い出すだけで、モニターにまとめられていくとかするのかもしれません。

 

そうなれば、まさに脳までもがデバイスと化し、紙のノートも電脳なノートへと移行して、昔懐かしいノートの貸し借りも、データの共有で事足りるようになるのかもしれません。

 

そんなことをしなくても、最初から「共有」にしておけば、学んだ内容がリアルタイムで共有されるので、後でデータを送信する手間もなくなるのでしょう。

 

デジタルなノートでは、記憶容量も無限大だし、検索だって瞬時に行えるのでしょう。

 

ただ座っているだけで、人類の英知を電気信号で受け取る時代がすぐそこまで来ているのでしょうか。

 

楽しいのかそれで。

 

と思ってしまうのは私だけ?

 

紙のノートの特質はいろいろあるけど、まずもって、その使い方に個性が出る、というところを重視したい。

 

データの共有は大切かもしれませんが、そのデータをどのように「消化吸収」するのかについては、個人の知性の在り方とも密接に絡んでくるはず。

 

ましてや、それまでに学んだことや経験してきたこと、考えてきたこととどう結びつけるのかについては、きわめて個人的な作業となるのではありますまいか。

 

どこを切っても同じ、という金太郎飴のような知性は、知性と呼べるのか。

 

同じ講義を聞いても、同じ参考図書を読んでも、同じデータを調べても、そこから何を自分に付け加えるのか、どんな関連をつけるのかは人それぞれ。

 

したがって、もしノートを取るとなったら、その内容も書き方も十人十色。

 

中には、デジタルに残せないノートもあることでしょう。

 

一方で、ノートのデジタル化は進むでしょう。

 

マジで、頭に思い浮かべたイメージまで、モニターに映し出す技術が実装されるようになるかもしれない。

 

けれども一方では、きわめて個人的な「作品」として、ノートの文化というものも残っていくと思います。

 

同じ風景を大勢で写生しても、出来上がった風景画がそれぞれ違うように、同じテーマでもどんなノートにするかは人それぞれのはず。

 

「正解」というものがない、それがノートテイキングの世界。

 

いろんな方々の手帳を集めた「手帳博物館」があると聞きます。

 

同じように、ノートを集めた「博物館」もまた、作られてもいいのではと思ってしまいます。

 

何を「独学」するにせよ、どんなノートを作るのかは重要ですし、また楽しいことでもあるのです。

 

独学の「やり方」については、多くの書籍が出てますが、これからは、どんなノートを作ったのか、そのノートに注目が集まるかもしれません。

 

これまでにもありましたけど、ノート本もまだまだこれからも出版されると期待します。

 

だって、見たいですよね、他人のノート。