また「戦後」がやってきた

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

曇りなのに涼しくない夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

また「戦後」がやってきました。

 

普段それほど意識はしていませんが、8月ともなると、ニュースやテレビ番組に「戦後」が取り上げられます。

 

と言っても、テレビのない生活をしているので、ネットのニュースで特番について知るぐらいです。

 

あまりにも長い「戦後」をもう時代の呼称としてやめようという意見や、東北大震災以前と以後で分ける「災後」なる用語が提案されたりしていますが、なかなかに「戦後」の呪縛は強そうです。

 

まだまだ「戦争」そのものや「核兵器」を考えあぐねているのではないかと思います。

 

というより、考え足りない。

 

戦争の継承も不十分だ。

 

日本という国は、国を挙げて「核兵器」に反対しているわけではない。

 

元米国大使の証言によれば、在日の米軍によって、日本国内に核兵器は「持ち込まれている」

 

戦闘による死は無くなったものの、老若男女が不慮の死を迎える社会は、残されたままです。

 

いったい、戦前から見て、あるいは戦後として、どれだけ「平和」な社会を作り上げられたのだろうかと自問する時、あまり変わってはいないという認識も、どこかでうごめいているからこそ、今もまだ「戦後」と言われて受け入れられるのではないかと思います。

 

それに、日本という国こそ、戦後、戦争や紛争の当事国になることはなかったでしょうけれども、直接間接に関わったことならいくらでもありました。

 

あの、輝かしい「3丁目の夕日」の時代、日本の経済成長を後押ししたのは、朝鮮戦争ベトナム戦争ではなかったでしょうか。

 

「日本人の勤勉さ」や「優秀さ」だけで、高度経済成長を語ることはできないでしょう。

 

どこかで戦争の影が付きまとっているからこそ、「戦後」を脱却できない。

 

そして、落ち着いてみれば、「戦争もそんなに悪いことばかりでもなかった」という反動が生じるのも、また自然な流れなのでしょう。

 

「そんなに日本は悪いことを、悪いことだけをしていたのか」という感情は分からなくもないですが、歴史認識としては、正当化できないことが多いと思います。

 

それになりより、日本兵の死因の4割から6割は「餓死」であったと聞くに及び、なおさら、あの戦争は何であったのかと問わずにはいられない。

 

では「戦後」は、その反省の上に立って、「平和」な社会を作り上げられたかと言えば、そうでもない、と答えざるを得ないのではないでしょうか。

 

個々の命というものが、どれだけ大切にされているのか。

 

プロの軍人による、兵器を使った戦闘がないから「戦争」ではない、とは言えないのではないか。

 

かつては、交通事故死の急激な高まりを「交通戦争」と呼びましたし、「受験戦争」なる言葉も飛び交いました。

 

今のこの日本で、本人が望まない不本意な死が、いったいどれだけあるのか。

 

そしてそれを「平和」と呼んでいいのか。

 

つい先日も「人を殺したかった」無差別殺人未遂事件がありました。

 

あの犯人にそう思わせた何かは、どこまでいっても個人的な事情なのでしょうか、それとも、我々の社会が抱える、なんとかしなければならない問題点なのでしょうか。

 

どのような社会であれ、自分もその中に入っているのです。

 

風船の中のおびただしい分子の一つ一つの運動が、風船を動かすように、我々の社会もまた、個人という分子の動きの総体で、どこかに転がっていくのでしょう。

 

個人の生活と社会の動きというのは、どこかでつながっていると思ってます。

 

ただ見えにくいのと、実感がないだけ。

 

いましばらくは、「戦後」にひたりましょうか。