手帳はライフログへ、でもそれだったらノートだ
こんにちは。
てらぴーだよ。
またまた自転車ですっころんでしまった夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
転んで体が横倒しになると、かなりの確率で、肘もすりむいてしまいます。
こんな、生傷の絶えない老後を迎えようとは。
いや、まだまだ「老後」じゃない、「老前」だよ。
「これから年老いていく」という意味ではみんな一緒。
いつまでも、「老前」でいましょう。
とは言え、私の人生もいつかは終焉を迎えます。
誰にあてるでもなく、自分の生活の詳細を書き記すとしましょうか。
それが「ライフログ」、私が生きた証し。
などと言えば、尊大に響くでしょうか。
この私の人生のいったいどこに、書き記すだけの値打ちがあるというのか。
しかし、その際の値打ちとはいかなるものであるのか。
そして、誰が決めるのか。
万人に共通する、人生の真実を書き記してでもいない限り、そのライフログは読む価値なしなのでしょうか。
我々一人ひとりが「音叉」のようなもので、それぞれ固有の周波数を出している。
そしてその、特有の波形に共振する別の音叉は必ずあるに違いないと信じてます。
また、どこでどんな風に共鳴するのかも事前にはわからない。
生前は見向きもされなかった作品が、その作者の死後に多くの共鳴を生み出すことは、歴史がつとに証明しています。
でも、最初から、共鳴を狙って書くよりは、自分の考えたままを書き記した方がいいでしょう。
そのほうが「素」が出ますし、ライフログも薄っぺらなものになりません。
一人の個性が心底考えたこと、体験したことには、意外な広がりを見せることもあるでしょう。
今は、脳科学にせよ、心理学にせよ、哲学においても、内面への深い関心がもたれている時代なのですから。
手帳=スケジュール帳と狭めないで、事実の羅列はほどほどに、あなた自身の、その時の気持ちや考えを記してみればどうでしょう。
感情や考えを文字に書き出すことで、見える化つまり客観視することで、さらなる気づきも生まれてくると思います。
そしてそれは、ちょうどモスラが繭を作るのに糸を吐き出すように、「その場」で紡ぎ出されているのです。
決して最初から、用意されてなどいません。
書き出してみて、こんな感情だったのか、こんな風に考えていたのか分かることの方が多いと思います。
書くことは、書いている自分にとっても、大きな驚きであると同時に、予定外の発見でもあるのです。
時には、自動書記のように、後から後から文字が浮かんできて、とても書き止められない、といった事態も経験するかもしれません。
「思い付き」と言ってしまえばそれまでですが、書くまでわからなかった自分の思考や感情に向き合うのも、また楽しいものです。(時には、胸がきゅんとなったり、えぐられたりしますが、それもまた人生の醍醐味ということで)
それに、書くことには、意外な「浄化作用」もあるみたいです。
文字にして客観視することで、何かしらの効果を生むのでしょうか。
そのうち「瞑想」とコラボして、「書く瞑想」も誕生するかもしれません。
「写経」がそうでした。
日記と瞑想も、組み合わさると、相乗効果を持つかもしれません。
ライフログには、手帳よりノートでしょうから、ここでもノートと手帳の分冊が豊かな実りを生むのです。
たっぷり書けるノートを用意しましょう。