自分時間を確保したら、ぐっすり眠ろう

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

湿度2億パーセント!の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

午後、ふと窓の向こうを見たら、薄いけれども虹。

 

虹が出ていました。

 

でも背景がほとんど灰色なのです。

 

そう、いつもは見えていた向こうの山などが全く見えない。

 

向こうの方は雨なのか?と思っていたら、やってきましたにわか雨。

 

昨今のゲリラ豪雨からすると控えめではありますが、通り雨としては十分な雨量でございました。

 

おかげで、帰宅すると湿度が2億パーセント。

 

そのうちエラ呼吸ができるかもっていうくらい空気がみずみずしい。

 

お魚じゃなきゃ、やってられないよね。

 

さて、また新しい1週間が始まります。

 

自分時間をしっかりと、確保しているでしょうか?

 

自分が楽しさで満たされる、「ああ、これをするために生まれてきたのだ」と思えるような時間が持てているでしょうか?

 

「生まれたからには生きてやる」と、かのブルーハーツも歌っているではないですか。

 

素の自分をさらけ出せるような、脱力した時間をもっと持ちましょう。

 

かと言って、しょっちゅう脱力していたら、社会生活に支障も出ましょうから、そこの配分は大人の視線でバランスよく分けましょう。

 

ウィークリーをお使いの方は、1週間のうち、自分時間がどれだけ持てているのか把握していると思います。

 

もしまだでしたら、はっきりと、この曜日のこの時間は100パーセント自分の時間なので、自分で自由にしていいのだ、という気持ちで、その時間帯をカラーのマーカーなどで縁取りましょう。

 

僕は黄色で囲ってます。

 

これをすると、ウィークリーを開いた瞬間に、自分時間が目に飛び込んできます。

 

もちろんその時間帯がそのまま、1分1秒自分の自由かと言えば、移動の時間があったり、着替えたり準備したりの時間などもあるのですから、実際のところは目減りするのでしょうけれども、それもまた自分の時間ということで、鷹揚に構えておけばいいと思います。

 

大切なのは、まとまった時間を自分のために用意してあげること、そして実際に自分のために使うことではないでしょうか。

 

疲れたとかそんな気分じゃないとか、横になってスマホをいじっていたほうがいいとか、何かしらの理由を探してきて、本当はしたいことなのに、すれば充実感を味わえるのに、自分に許可を出し渋ってはいませんか?

 

自分を甘やかしましょう。

 

それもいい意味の方へ。

 

「甘やかして」スマホ三昧は、目や脳に損傷を与えるみたいですから、リラックスするというよりは、「虐待」と言ったほうが、的を得ているのかもしれません。

 

自分にダメージを与えない事柄で、自分を甘やかしてください。

 

ダメージか充実か、その線引きは、寝つきがいいか寝起きがいいかで測れると思います。

 

睡眠の質を高めることは、今日の疲労を取り去り、明日のパフォーマンスを高める土台となることです。

 

朝、すっきり目覚められないのであれば、昨夜の何かが睡眠を邪魔しています。

 

そしてそれは、睡眠だけでなく、次の日1日の出来具合にまで影響してくるのです。

 

いくら自由時間を確保できても、肝心の自分の脳がうまく働かないのなら、それから得られる充実感や楽しさは、半減どころでは済まないでしょう。

 

スケジュール管理と並んで、自分の脳や気分のメンテナンスも、また重要なのです。

 

明日の朝の目覚めの良しあしは、この後の行動にかかっているのです。

 

この夏、自分に感動を与えるスケジュールを組もう

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

リットル単位で汗が出る夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

自転車に乗っているせいで、あっという間に腕がツートンカラー。

 

先ほどお風呂で気がつきました。

 

誰が呼んだかドカチン焼け。

 

年のせいかすぐ日焼けしてしまう。

 

紫外線、お肌の大敵ですってよ。

 

夕方ミスドに避暑、野帳を開いて夏の作戦会議です。

 

と言っても、考えることは季節に関係なく似たようなこと。

 

にならないように、今回は「夏ならでは」のものが何かないかあれこれ思案中です。

 

一人じゃ、流しそうめんはできないし、してもすぐに飽きそうです。

 

何しろ流す人とそれを箸で受け止めて食べる人が同じ人なんだから。

 

むなしいよね。

 

「(行ける範囲で)どこかに行く」もいいけれど、もっと漠然としてもいいかも。

 

例えば「セミの声を聞く」とか「夕焼けを眺める」とか「カフェでたそがれる」とか。

 

ウィークリーを開いて自由になる曜日と時間帯を確認して、どんどんやりたいことを「予約」しましょう。

 

書き出せば、どこかで頭が覚えているので、半ば自動操縦のように、自分を操ってくれたりします。

 

暇になったらとか時間ができたらとか思っていると、(どちらも同じか)いつまでたっても「今日はできなかった」で終わってしまいそう。

 

ここは強力にスケジュールとして、自分予約をしましょう。

 

行けば楽しい、やれば充実することを書き出して、この日に行く、この日に買う、この曜日のこの時間帯でDVDを見る、と書きこんでしまいましょう。

 

後は実行するだけにするのです。

 

できれば小さい付箋で書き出して、できなかったら貼りなおせばいいだけ。

 

とにかく実行に移して、できる自分を確認しましょう。

 

小さな「できた」であっても、続いたり蓄積していけば、できる根拠ともなって、自信にもつながるでしょう。

 

「案ずるより産むがやすし」というように、「できるかな」と思ってないでやってみれば、たとえうまくいかなくても、そこから何かしらの経験を得るものです。

 

そして、その経験から学べることがきっとある。

 

好きなこと、この夏これがあればさらに自分を楽しめるなと思えることを書き出して、スケジュールに加えるだけ。

 

それを1週間ごとに見直していけば、いろんなノウハウが身につくでしょうし、そこでの体験を、うまくいったいかなかったにかかわらず、文字化していけば経験値として蓄積されていくでしょう。

 

やればやるほど時間も短縮されるでしょうし、段取りもてきぱきとこなせるようになるでしょう。

 

最初から、効率化を目指さなくても、やってるうちに「あ、こうすればいいのか」と気づいたりするものです。

 

後はそれを忘れないように記録しておけばいい。

 

この夏の経験を「こんなの初めてだ!」にするために、手帳を開き、あれこれ自分と対話してみてください。

 

昆虫の擬態が不思議だ、誰がデザインしたの?

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

日に何度もシャツなど着替える夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

撲滅したと思ったのに、あっという間に湧き出るコバエ。

 

あいつらのライフサイクルはどうなっているのか。

 

通常、完全変態の昆虫というやつは、産卵を経て、幼虫、さなぎ、それから成虫という生涯を送るものと思っていましたが、我が家のコバエの増殖ぶりを見ていると、違うのではないか。

 

コバエのお母さんが、いきなりコバエを生んでいるとでも考えないと、あの増殖ぶりを説明できない。

 

しかもお母さんが無性生殖で、自分で勝手にわが子を増やすような、「子」じゃないか、生まれた瞬間成虫。

 

もうその増えっぷりときたら、どんなねずみ講ネットワークビジネスも太刀打ちできないような仕組みでもって「子孫」を増やしている。

 

地球上の生き物で、もっとも繁栄しているのは昆虫だという意見があるらしいけど、全面的に賛成。

 

我々も、もっと昆虫に学ぶべきなのかもしれません。

 

昆虫でよく分からないのが「擬態」というやつ。

 

自分はそれほど強くもないし毒なんかも持たないのだけれど、強いやつとか毒を持った仲間の姿をコスプレしてるやつ。

 

いったいなんだってそんな発想をして、しかもコスプレに成功しているのでしょう。

 

皮膚というか外骨格に、何かを塗ったというわけではなく「地肌」なので、性格には「コスプレ」とは言えませんが。

 

自分は「スズメバチ」じゃないくせに、スズメバチのような、黄色と黒のツートンカラーにして、相手をビビらせようだなんて。

 

さらにすごいのは、仲間ではなく樹木の表面とか枯れ葉、さらには蘭の花なんかに擬態するのまでいるということ。

 

「また今日も仲間が鳥に食われっちまっただよ。そうだ!この羽根を枯れ葉のようにすれば、見つかりにくくなるんじゃないか?」

 

とでも思ったのだろうか、最初に「擬態」を夢想した個体は。

 

でもそのおかげで枯れ葉に擬態できて捕食者に食べられることも減り、子孫が生きながらえているのであれば、大成功ではないですか。

 

まさに、昆虫版「思いは現実化する」

 

しかし考えてみると不思議で、どのように擬態をデザインしたのでしょう。

 

誰がデッサンしたんだ。

 

「ええと、ここがこうなって、ここはこんな色で、あ、このあたりに虫食いの穴を一つつけとけば、よりリアルになりますよ」なんていうデザインな進化を何億年にもわたって繰り返してきたのでしょうか。

 

それとも、「たまたま」葉っぱとかに似たデザインの個体が「突然変異」で生まれ、生存率も高かったのでその後のスタンダードになっていったのでしょうか。

 

すべては進化のみぞ知る。

 

ただ、擬態を、絵にかくとか、写真に撮るかのように捉えなくても、一瞬で「コピー」できる「方式」があると思います。

 

それは「波長」です。

 

もともと「色」なんていうものは、ないのだそうです。

 

あるのは「波長」の違いだけ。

 

ある波長を感じたら、脳がそれに「色」を割り当てているのだそうです。

 

イヌや牛は、白黒の世界に住んでいるそうです。

 

木々の葉っぱを見て「緑」だと思うのは、「真実」ではなくて我々の脳がそのように見せているだけ。

 

昆虫の擬態も、擬態する対象物を「絵」のようにとらえているのではなくて、「波長」を真似しているだけなのではないか。

 

そう考えると、例えばスズメバチの擬態で、ここからここまでは黒、ここからここまでは黄色などという捉え方ではなしに、全体を「波長」として把握しているのではないでしょうか。

 

一つひとつのものを個別にとらえないで、全体でとらえるものが、スピーカーではないでしょうか。

 

オーケストラの音楽を再生する場合でも、スピーカーの中にそれぞれの楽器があるわけでも、楽器ごとの音を再現しているわけでもありません。

 

その瞬間の波長を一つのスピーカーで、一つの膜の振動で、再現しているのでしょう。

 

もちろん音域によって、スピーカーを使い分けると、より立体的に音楽を再生できますが、音の良しあしを我慢すれば、一つのスピーカーで再生は可能でしょう。

 

すべては「波長」なのです。

 

我々も、我々の記憶も波長である、という観点から、捉え直すことができるかもしれません。

 

大人も夏休みしよう!

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

梅雨明け2日目の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

いつの間にか梅雨が明けてました。

 

それなのに、今日のぐずついた雨は何だ。

 

消費税?

 

というわけで、盛りの夏が始まるって言うか、もう始まっている。

 

来週からは、小中学生も夏休みに入るのだろう。

 

だったら、大人も、夏休みに入ろう。

 

と言っても大人は、30日なんて休めない。

 

おフランスなんかだと可能なのかもしれないけど、日本はまだそこまで進んでない。

 

でも、だからと言って、夏休みがないのも悔しいではないか。

 

完全バカンスは無理としても、なんちゃって夏休みぐらいなら、スケジュールと想像力で、なんとかバカンス気分を味わえるのではないか。

 

そこで、まず自分が考える「大人の夏休み」とはどういうものなのか、できるだけ具体的にそのイメージを、野帳かノートに書き出してみよう。

 

箇条書きでもいいし、物語風でもいい。

 

これがあったら、あるいはこれをしたらそれは俺の夏休みだ!と思えることを列挙するのでもいい。

 

もちろん文字だけでなく、イラストや図解も交えて、大人の夏休みをあからさまにしていこう。

 

例えば、「アロハシャツを着る」だけでもいいではないか。

 

これが、「職場にアロハシャツで行く」に成長して、実行に移されたら、「シンニホン」に1歩近づいたことにならないだろうか。

 

ハワイにだって「風の谷」はあるだろう。

 

リモートワークなんかだと、敷居はぐっと下がって、今日は浴衣で仕事だ、なんてことも可能だろうし、もうすでに実行している人もいるかもしれない。

 

いつものお決まりのスタバやタリーズに行くのだって、服装を変えてみるだけで、ぐっとリゾートになれるだろう。

 

ついでにカフェでの注文をコーヒーからフラッペに変えるだけでも、夏気分が味わえるというものだ。

 

小さい傘を用意できると、さらに気分も盛り上がること間違いなしだ。

 

こんなご時世なので、旅行に行きまくるというのは難しいにしても、近場でご無沙汰しているエリアがあれば、定期巡回よろしく回ってみるのもいいかもしれない。

 

手帳を開いて、行きたいエリアと空き時間をマッチングさせて、何をするのか、テーマを決めると、さらに冒険気分になれるかも。

 

ていうか、冒険気分が味わえるようなテーマを自分に用意してあげよう。

 

入ったことのないお店に入るとか、メニューの上から3番目を必ず頼むとか、イレギュラーが起こりそうな行動をとってみよう。

 

部屋に引きこもって、映画や読書三昧もいいと思うけど、これまでも、これからも手に取らないであろう作品も必ず一つ加えてみると、また違った体験がそこで生まれるかもしれません。

 

いつもと同じことをしていたら、日常は何も変わりません。

 

可能なら、年代の違う友人を3人作るとか、行きつけのお店を3件増やすなんてのもありでしょう。

 

実行するかどうかは置いといて、この夏、何があれば「夏満喫した!」と思えるのか、自分なりの要素を全部書き出してみましょう。

 

夏しかできないことで、自分の自由時間を埋め尽くしましょう。

 

暑すぎて、もうまともではありません

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

七夕(7日)のダブルスコアな(14日)夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

うだるように暑さに、頭が回らない原因を押し付けて、ただただぼーっとしてみよう。

 

というわけで、もう、何も考えられないのだった。

 

野帳を開いても、言葉が出てきません。

 

いったいものごとを考えているときのあの言葉たちは、どこからくるのでしょうか?

 

時に、自分の頭の中でひらめいたと思える言葉も、まるで外部からやってきたように思えることもあるのです。

 

野帳を開いて、手にした筆記具から言葉が紡ぎ出される、そんな感触を感じたことも、一度や二度ではないのです。

 

モスラの幼虫よろしく、口から糸を吐くように、言葉がほとばしり出ることもあります。

 

無地の紙を前にして、まるで最初からどこに何を書くのかを決めていたかのように、その時に考えていたことが「図解」されることもあります。

 

手と目と、それから脳の、奇妙な共同作業。

 

それらの言葉や図解が消えてしまわないうちに、書き止めようとやっきになることもあります。

 

けれどもこの暑さで、手や目はまだ健在ではあるものの、脳が休止状態。

 

もう何もまともなことは、考えられそうにありません。

 

何かしら「文字」を書いていれば、そのうちスイッチも入るだろうと、ToDoリストを作ったり、買い物リストを書き出してはみるのですが、その後が続きません。

 

自分が日々考えていることや、自分が目にしたり耳にする情報は、すべてが断片なのだ。

 

しかしその断片を、パッチワークのようにつなぎ合わせて、幻でもいいからとりあえずの全体像に仕立て上げていく。

 

ニュースにしても本からの情報にしても断片なのです。

 

そのままではいつとはなしに消えていく。

 

けれどもほかの断片とつなぎ合わせて、別の意味を持たせれば、世界の断面が表れてくるのかもしれません。

 

客観的な世界というものは、どこにもなくて、我々一人ひとりのそれぞれの主観的な世界が、各自の内部にあるのでしょう。

 

その世界を、どのよう育てていくのか。

 

日々ネガティブな情報に接し、その内部世界にネガティブな情報を送り込んでいれば、その人にとっての世界は、否定的に描かれるようになるかもしれません。

 

けれども逆の世界像も、日々の情報の取り方で形作ることが可能でしょう。

 

その意味では、我々は自分が信じた世界を生きているのです。

 

それなのに、どうして会話が成立するのかということに関しては、継続審議とさせていただきたい。

 

紙の大敵は湿気、それに水っ気なのでした

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

久しぶりに晴れ間の見える夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

梅雨の中休みなのでしょうか、朝から晴れていいお天気でした。

 

夜になって雲が増えても、晴れ間というか夜空がのぞいています。

 

夕焼けに染まった雲も、「でんぶ」のようなショッキングピンク

 

それにしても、蒸す。

 

というわけで、ミスドなどに避難するわけですが、冷房対策として、最近は冬に着ていたジャンパーを抱えて入ります。

 

冬用としては薄手のジャンパーなのですが、その薄手がこの頃には最適にマッチして、冷房が効いている中、寒さに震えなくてすんでます。

 

何といっても紙の大敵は水気、湿気なのですから。

 

手帳やノートなどの紙類を広げて、何か書こうと手を当てたら、汗ばんだ手の汗で紙が波打つ経験は、どなたもご存じのことと思います。

 

なので、おいそれと冷房を発動しない自宅においては、手のひらに敷くあて紙を用意していたものでしたけど、冷房の効いたカフェやミスドなどでは、もはや必要ありません。

 

ただ時折り、特に必ずお水が出てくるカフェでは、その水の入ったコップの周りに水滴がついて、やがて垂れてきて、コップの周辺をちょっとした水たまりにするという事案がございます。

 

ついうっかり気づかずに、紙類をその周辺にはわせたりしたら大変です。

 

あっという間にわが手帳やノートの紙類は、吸い取り紙のごとくにその水分を吸ってしまうでしょう。

 

吸い取らないまでも、水に触れるというだけで、紙類はその表面を波立たせることでしょう。

 

しかも水と接触した紙には、どんな筆記具もその本来の機能を果たせません。

 

つまり字が書けない。

 

もしそんなことにでもなったら、しばらく文字を書く行為はお休みとするか、そのこと自体をその日はあきらめないといけなくなる。

 

冷房の効いたおしゃれな店内で、文字をしたためて、ちょっと自己肯定感でもかさ上げしようという目論見は、もろくも崩れ去るのです。

 

恐るべし水滴、恐るべし結露。

 

これがミスドだと、水などはトレーの中なので、テーブルに置かれるということがありません。

 

ノートを広げる時はそのトレー、ジャマだったりするのですけど。

 

ですから夏は、どこで手帳を広げようか、どこでノートに書きまくろうか、というのが、夏の課題として存在するのです。

 

もちろん、水にぬれても大丈夫な、プラスチックな紙も、その紙を使ったメモ帳も、今じゃあダイソーででも手に入りますし、雨の中でもメモが取れる「野帳」も、ずいぶん前から発売されてます。

 

でも正体はプラスチックなので、書き味が今一つ。

 

鉛筆だと薄すぎて、書いた実感がわかないし、ボールペンの類では、表面がつるつると滑りやすい。

 

中には時間が経つと、インクが必要以上にしみこむものもあるので、注意が必要です。

 

水性ペンでは種類によって、インクをはじいてしまうものもあります。

 

書いた後で手で触ると消えてしまうくらいに。

 

工事現場などで、油性ペンで大きく書く分には、必須のアイテムなのかもしれません。

 

ただ、テクノロジーは、日々進歩なので、そのうち紙の感触を再現したプラスチックな紙が、登場するかもしれません。

 

あるいは、水に浸かっても、筆記が可能なインクもしくはペンが、開発されるかもしれない。

 

テーブルの上の「水たまり」に浸かりながらも筆記できるようなインクあるいはペン先。

 

あるいは、さらにその上を行って、水たまりのその表面に、さらには水の中に字が書ける時代が来るかもしれないではないですか。

 

って、そのペン、いったいだれがどんな場面で使うのやら。

 

梅雨の真っ最中に、まともな傘がない

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

いつの間にか部屋が暖められている夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

梅雨の時期だというのに、つくづく傘とは縁のない人生であったと、しみじみ思う。

 

なにしろ、10年愛用している傘すらないのだから。

 

いや、正直に申せば、5年来愛用している傘もない。

 

いやいや、さらに告白するならば、つい先日も、買って3回も出動したであろうかというほぼ新品の傘を強風で骨を曲げられたばかりなのだった。

 

骨が黒かったので、てっきり、しなやかに曲がり元に戻るカーボンファイバーだと思ったら、鉄骨なのであった。

 

曲がったら、もう廃棄まで時間の問題。

 

ああ、なぜこれほどまでに、傘に縁がないのでしょうか?

 

思えば、自分用の傘を買ってもらったのは、何歳のころだったのか。

 

覚えているのは、幼稚園の時に買ってもらってお気に入りだった、新幹線の傘。

 

たぶん開通して間もない東海道新幹線にあやかっての傘であったのだろう。

 

新幹線がイラストになって、それがちりばめられた青を基調とした傘であった。

 

雨上がりの通学路を、近所のさとしちゃんと遊んでいて、雨で水かさが増した道路わきの水路に突っ込んだからさあ大変。

 

水路が、道路の下を通る暗渠になっていて、哀れ、幼稚園児の傘は吸いこまれていきましたとさ。

 

慌てて道路の反対側に走るも、傘は出てきません。

 

途中で引っかかったのだろう。

 

そこにごみなどがさらに引っかかって、水があふれたらどうしようと不安になって、しばらく不安につかまっていたので、覚えているというわけなのでした。

 

それから小学校に上がり中学生になり、いろんな傘を買ってもらったはずなのに、いつの間にかなくなっているのです、というか、覚えてない。

 

東京の荻窪あたりに住んでいたころ、吉祥寺の駅ビルが改装で、テナントが閉店セールをしていました。

 

はっきりとした数字は覚えていないのですが、「962ミリバール」という、低気圧な名前のお店で、傘を買ったことがあります。

 

持ち手が曲がってなくてまっすぐで、その端っこと、傘全体の先端に細いベルトがかけられるようになっているのです、つまり。

 

肩掛けで持ち運べるのでした。

 

何なら、忍者のように、背中でななめ掛けもできました、しませんでしたけど。

 

濃い青のデニム地だったように覚えてます。

 

すごく気に入って、雨の日はどこに行くのも一緒だったのに、いつの間にか消えてました。

 

それから、正社員というものになって、お高い傘の一つも買ってみようと自分の中の最高指導者会議で決定。

 

5800円を奮発しました。

 

さすがにここまでいくと、水の弾き方がバーバリーのレインコートかってくらい弾きます。バーバリーのレインコート、知らないんですけど。

 

これも愛用してましたけど、骨の先端(多分名前あるんだろうな)が欠けて、修復が不可能と分かった時点でお別れです。

 

そのほか、置き忘れたり、お店の傘立てから盗まれたり(これは本当に頭にくる)、傘にまつわる思い出は尽きませんが、みんなどうして僕の元を離れてしまうのか。

 

世の中には、大分昔に買った傘を大事に今も使っているとか、これはおじいさんの代からの傘、なんて代々引き継がれた傘を差している人もいることでしょう。

 

ああ、うらやましい。

 

そして、僕の手元にまともな傘がない。

 

また、どこかのドラッグストアーで、今度こそ、カーボンの傘を買うのだ、ということは決めているのでした。