インプットに正解はない、アウトプットがインプットを高めてくれる

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

恐ろしいほど冷え込んだ夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

午後に散歩に出たのですが、外に出た時点で足先が冷たい、のがはっきりと分かる、そんな冷え込み具合。

 

歩いても歩いても体が温まりません。

 

アウトプット(熱の放射)が悪いということは、インプット(飲食並びに運動)に何か問題があるのでしょうか。

 

それとも、筋肉の衰えによる、新陳代謝の低下なのかしら。

 

体だけでなく頭も心も「年を取る」昨今、何か歯止めをつけないと、ただただ老化していくばかりです。

 

外に出すことをアウトプットとするならば、その質や量を支えているのがインプット。

 

何をどのように「インプット」するかで、「アウトプット」が変わります。

 

逆に言えば、アウトプットのフィードバックでしかインプットの精度を測れない。

 

なので、インプットばかりでアウトプットをしないと、このインプットでいいのか悪いのかもわからなくなる。

 

例えば本を読んで、何かに役立てようと思っても、何もアウトプットしなかったら、その読書にどれだけ意義があったのか、はっきりとは分かりません。

 

ほんの少しでもアウトプットすれば、そのインプットがどれだけのものであったかがわかります。

 

ある本を読んだのなら、その本のテーマでどれだけ話ができるか、ただ面白かったで終わらせないためにも、具体的な形のあるアウトプットをしてみるのがいいのでしょう。

 

だからと言って、本に書いてあることをそのままだらだらと述べたり書いたりしても、良質のアウトプットとは言えないはずです。

 

オウム返しでもアウトプットが成立するというのなら、その本をそのまま書き写したほうがいい。

 

情報は、漬物みたいなもの。

 

ある程度の発酵がないと、おいしくはならない。

 

そのまま食べてもおいしいけど、こんな具合に発酵させるとさらにおいしい、そんな「発酵熟成」ぶりが、アウトプットの醍醐味でしょう。

 

いわば、読みの深さ。

 

あるいは、誤読の面白さ。

 

素材を生かしつつ、どのように調理するか。

 

そこに、読み手の個性が現れると思います。

 

読み手の個性でどんな発酵が行われてどんな味わいが加わるのか。

 

インプットに正解はありません。

 

この本はこう読まなければならない、そんな決まりはないし、この情報はこういうことだからという「共通理解」のようなものもない。

 

どのように捉えるのか、そのアウトプットの在り方が、インプットを左右するのでしょう。

 

アウトプットがどれだけ深かったのか、どれだけの射程を持ったのか、どれだけオリジナルだったのか、そうしたアウトプットの在り様からしかインプットの精度は高められないと考えています。

 

インプットだけでは、インプットさえも成長することはないのです。

 

世に広く、アウトプットが前提と言われるゆえんでしょう。