AIに必要なのは、文系の力、それは私たちの脳から発信する
こんにちは。
てらぴーだよ。
ピークを過ぎたとはいえ暑い夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
それでも夜は少し涼しくはなりました。
朝から暑かったので、倉式珈琲にモーニング避暑。
いつも座っているカウンター席、間隔をあけて5人ほどが座れるようになってます。
で、僕がその5人目。
なんと全員男性、しかもおっさん、さらに高齢化率高し。
このカウンターだけで、平均年齢50代は行きそうです。
僕はまあ一人暮らしですが、皆さん同じように一人暮らしなのかな。
最近スーパーなどでも、一人で買い物に来ている高齢者の男性が増えているように感じます。
自分がそうだから、なおさらそのように感じるのでしょうか。
でも、ご夫婦であっても、何かしらのご事情もおありなのかもしれず、今日はたまたま一人で、という場合もあるでしょう。
でも、カウンターでそれぞれが窓を向いて黙々と読書などにいそしむ姿は、寂しいものがありました。
余計なお世話ですけど。
本日のコーヒーは、グアテマラSHB、香りがとても強く、酸味も苦味も味わえました。
粉で買うと、どうしても「香り」が犠牲になるようで。
香りを味わいたいのなら、豆で買って、挽きたて、淹れたてで飲むしかないですよね。
脳に電極を差し込んで、しかるべきところに電気信号を送って、「視覚」を生成することに成功したというニュースを少し前にネットで見ました。
こうした研究がさらに進めば、コーヒーを飲まなくても、しかるべき電気信号で、お好みのコーヒーの香りやら味わいが楽しめるようになるのでしょうか?
もう『マトリックス』まっしぐらです。
自分の全記憶をコンピュータに転送して、「永遠の命」を手に入れようという研究まであるのだとか。
その人の全体って、その人の記憶の総量か?てな問題はあるでしょう。
テクノロジーは時に、思いもかけない方向に進んだりしますから、「歯止め」というか、ジャッジが必要ではないかと思います。
AIにも、倫理学が求められるゆえんです。
そうした分野は、人文科学や社会科学、いわゆる文系なので、そう簡単に大学の専門分野、研究分野から外すわけにはいかないでしょう。
コンピュータの日本語訳は「電子計算機」、つまりは計算をとても早くやる機械なわけで、計算速度そのものは、技術的に向上させられるのでしょう。
けれども、なぜその計算が必要なのか、その計算をすることでどんなことが起きるのか、その計算は何の役に立つのか、といったことまでは「計算」してはくれないのです。
コンピュータは、何も考えていない。
「このミサイルをここに正確に打ち込むにはどうしたらいいのか」という計算なら得意でしょう。
相手国が発射したミサイルをいち早く察知して、迎撃するにはどうしたらいいのか、そんな計算もお手の物です。(もう計算は終わっているでしょうけど)
けれども、その結果、どんな事態が引き起こされるのか、いや、その前に、そもそもそのような事態にならないために何が必要なのか、それは「計算」することではないでしょう。
脳が作り出している、と信じられている意識とか心というものは、単なる電気信号以上のものだと思います。
仮に、電気信号に過ぎなくても、その精緻な電気信号を分断や差別、憎しみなどに特化して活用することもないでしょうに。
私たちは、ろくろを回して粘土をこねているようなものです。
さてあなたの脳細胞は、何を作ろうと手に指令を出しますか?
おなかを満たす食事のためのお茶碗でしょうか、生命力の根源に迫るような縄文土器のような作品でしょうか、それとも、一度に沢山の敵を殺せる先が分かれた槍でしょうか。
強く思ったイメージは、やがて現実化すると言います。
ならば、私たちに必要なのは、心を落ち着かせることではないでしょうか。
今日、どんなに心が揺れることがあっても、その荒れ模様をそのままにしないで、落ち着かせて眠りに入ること。
世界中のコンピュータが、ネットで繋がっているように、私たちの脳も、その深いところでは、繋がっているといいますから。
手帳の時間は、マインドフルネスの時間にもなるのです。