時間の流れに個人差あり、時間管理も人それぞれ

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

また新しい1週間が始まった夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

新しく生まれてきた時間に、何を盛り込むのか。

 

その時間をどのように過ごすのか、あらかじめ決めておかないと、時間は砂のようにずるずるとこぼれ落ちてしまいます。

 

砂時計なら、こぼれ落ちても、たまるだけで、上が空っぽになったなら、ひっくり返せば、また同じ砂が落ちてまいります。

 

けれども、我々の生活においては、一度こぼれ落ちた砂という時間は、もう元には戻りません。

 

どんなに悔んでも、過ぎ行く時間を見送るしかない。

 

したがって、我々にできることは、その悔んだ時間の使い方を、繰り返さぬよう気をつけることなのでしょうけど、のど元過ぎればなんとやらの法則が、ここでも有効なのでした。

 

これまでの人生で、無為に過ごした時間のことを思ったら、ずいぶんとまあ、己が命を粗末に扱ってきたものだと、恥じ入るばかりです。

 

もちろん過去には、それこそ何度も、時間密度を高めようと、スケジュールをできる限り埋め尽くそうとしたり、どこぞの首相よろしく、分刻みのスケジュールを立案したりもしたのですが、ことごとく定着するには至っておりません。

 

人類の、一人ひとり顔の造作が違うように、めいめいのどこかしらを流れている時間というものも、異なっているのかもしれません。

 

あの人の1時間と、この人の1時間は、時計で測る限りにおいては、同じ1時間なのでしょうけれども、その密度と言いましょうか、中に詰められる仕事量には、個人差があるのではありますまいか。

 

そうしてその個人差というものは、顔の造作のように、おいそれとは変更が効かないものであるらしい。

 

であるからには、それぞれの、進み方の異なる時間を過ごしているにもかかわらず、皆同じ時間を過ごしているはずだと、勘違いしてしまっているのかもしれません。

 

単位当たりの仕事量は、明らかに違うのに、同じ時間を過ごしていると思っている。

 

だとするのなら、時間の使い方を改めようとか、時間の無駄をなくそうというその目論見そのものが、はかない徒労に終わるのかもしれません。

 

その人にはその人固有の時間が流れている。

 

したがって、時間の感じ方が違う。

 

でも、時計で測定すると、同じ時間となる。

 

だんだん訳が分からなくなってきました。

 

もっと充実した1日なり1週間なりを過ごしたいのに、自分に割り当てられた時間の速度というものは、そう簡単には直せない。

 

だから「時間を無駄にした」と悔やんでも、それはその人の時間感覚なので、無駄とか充実とかではない。

 

結局人は、それぞれの時間を生きている。

 

となりの芝は青いので、羨ましくもなるけれど、そもそも芝の生え方が違うので、比べられることではない。

 

と、半ば開き直って、ウィークリーを眺めながら、自分にふさわしい1週間をシミュレーションしてみましょうか。

 

おのおの、毎朝時間が配られるのに、手にしているコップが違うのですから、自分のものにできる時間の量もまた、個人差があるのです。

 

自分にふさわしい時間管理を致しましょう。