野帳に言葉を集めています、思考力を鍛えようと
こんにちは。
てらぴーだよ。
ことのほか蒸し暑い夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
いつも持ち歩いている野帳には、自分の思い付きなどのほかに、気になった言葉や文章を書き止めています。
それらは、たいていは、本を読んでいるときに出会ったり、図書館で雑誌や新聞をめくっているときに目に着いたり、ネットで流れてきたりしたものです。
たとえば今日、久しぶりに近所の図書館に行って、新聞のコラムを読んでいたら目に突き刺さったこの文。
短歌において人名とは何かの隠喩なのだ。
日本経済新聞「春秋」より。
読んでてドキン!としました。(表現力が)
そこで、開いて待ち構えている野帳に、黒のインクで書き止めるのです。
他人からの情報は黒、と決めています。
なので、野帳をパラパラとめくって、黒のページが目立つところは、読書などにいそしんだ、ということなのです。
そうした、言葉集めの先に、文章を読み解く読解力が、少しでも向上するのではないかと期待して。
何しろ、その人の使いこなせる言葉が、すなわちその人の思考の限界だ、なんていうではありませんか。
確かに、直感といったあやふやなものを別にすれば、我々は言葉で、物事をああでもないこうでもないと考えているのです。
頭の中に複数のイメージやビジュアルな映像が浮かんできて、それらが頭のスクリーンを縦横無尽に駆け巡り、立体的に交差もして、なにがしかの結論へと収れんするのは、一部の天才的な方々だけでしょう。
もしくは、サヴァン症候群なお方か。
我々凡人は(道づれ)、どうしても言葉で己が考えを紡いでいかないといけません。
それには、日々精進あるのみです、というか、思考力をグンとかさ上げしたり、読解力を高めたり、難しい書物を読み解いたり、といったことができるようになる確実な方法は、まだ明らかになっていないと思います。
もし、こうしたら確実にどなたでも、ドゥルーズの著作が、日本昔話の「桃太郎」を楽しむように読めますよ、というのであれば、今頃TEÐでも取り上げられているでしょうし、5回とかの講座となって、売り出されているでしょうから。
そう簡単に思考力は上がらないし、読解力も深まらないのでしょう。
けれども、日々の頭の使い方で、今まで寝たきりだった人が、筋肉を取り戻していくように、思考力も読解力もつけていくことは可能だと、一縷の望みを持ってはいるのです。
それが例えば毎日の言葉集めであったり、遅々として進まない読書だったり、いつのまにか寝てしまう自分と向き合う時間だったりするのです。
もちろん書物に、「この本はこう読むのが正解」だなんて、現役東大生が教えてくれる「正解」なんてあるはずがなく、それぞれの流儀で読めばいいだけです。
けれども、おんなじステーキを食べたとしても、その消化吸収っぷりは違うように、何を自分の栄養として取り込むのかは違って当たり前ですよね。
その取り込み方が、食べたものがその人の体を作るように、その人の教養といったものを作り上げていくのでしょう。
しかるに、どのようにすれば、教養が高まるのか、その道筋は明らかではないのです。
ここにきて我々は(またもや道連れ)、振出しに戻ったようです。
日々ご飯を食べるように、毎日栄養を頭に届けないといけません。
その頭の栄養は、ことばのカタチをしているのです。
いたずらに難しい言葉を渉猟するのではなく、簡単な言葉でも、心に響いた言葉を集めていく。
その集積がやがて、大きな建物へと仕上がっていくのでしょう。
どれくらいの大きさの?
バベルの塔ほどの。
だめじゃん。