行き詰まったら、書く、書けば見えるさ(どことなく猪木風)
こんにちは。
てらぴーだよ。
一雨ごとに冬が近づいている夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
たとえ現状の生活に、どれほど満足していようとも、なにがしかのことを考えてしまうものではないでしょうか。
プラスであれマイナスであれ。
実際は、1日の内でも様々なことが起こり、そのたびに、顔の表情も変わっているはずでしょう。
「今泣いたカラスがもう笑った」というのは、何も幼児だけの特権ではありますまい。
なので、手帳には、スケジュール、いつ何をするのかだけを書くのではなく、その時々の気持ちや考えたことなども記していくと、自分というブラックボックスが、特にその作用が、次第に明らかになるものと思われます。
「なぜ自分はいつもこんな風であるのか」悩んでいたら、状況とその状況をどのように捉えているのか書いてみると、案外深刻には、つまり「いつもいつもこうである」とは言えない姿もまた見えてくると思います。
自分に対しても、人は思い過ごしをしているものなのですから。
2,3回やらかすと、「いつも」のことに格上げされたりしませんか?
自分だけと思っていても、案外「みんな」していたり。
不安の中身が問題なのではなく、不安に包まれることそのことが、心身にストレスなのではないかと思うのです。
不安の中身がどれほど深刻に見えようとも、それは多分「よくある」ことなのではないかと思います。
人間関係だったり、お金の問題だったり、健康についての不安であったり、将来への漠とした不安であったり。
でもその不安が、人間の服を着て、ドアの外であなたを見張っているわけでもないと思います。
時には開き直ることも大事だし、逃げることだって大切です。
償いは後からいくらでもできますが、今ここで動けないほどつぶれてしまえば、挽回もできません。
最後に笑うものが一番よく笑う、そうです。
ならば、最後に笑うためにも、今回は不義理をしてもいいではないですか。
そこまでいかずとも、対応はできるかもしれません。
何で詰まっているのか、何が問題なのか、いったん頭や心の外に出してみないことには、その全貌も見えてはこないと思います。
「書き出す」ことには二つの効果があるように思います。
一つは、悩んでいることを「見える化」できること。
問題点を列挙したら500もあった、なんていうのはまれでしょう、というかないと思います、そんなには。
そして、何が問題なのかが書き出せるのなら、その問題が客観視できたということです。
それは、少し落ち着けた、ということでもあります。
ならば、書いたものを見直して、解きほぐすことも可能でしょう。
問題をより小さなカタマリに分けてみるのです。
それが、書き出すことの効果の二つめです。
明日1日ですべての問題をすっかり解決、なんてできなくても、何ができるのか、解決には向かわなくても、できることは何か、書き出してみるのです。
それはお風呂に入るといった、気分を変えることでもいいでしょうし、部屋を片付けるでも構いません。
とりあえず友人に連絡を取るでもいいでしょう。
動いてみれば、そこからまた何かが動き出したりします。
書き出して、たとえ全貌でなくても、抱えている問題が具体的にはどのような姿をしているのかが見えてくると、他との比較もできるでしょうし、細かく分けることもできます。
すぐに解決はできないまでも、「困っていたのはこんなことだったのか」と、拍子抜けすることもあるかもしれません。
目に入ったほこりは、手でつまめないほど小さくても、痛みはかなり強かったりします。
でも、問題としては、それほどの大ごとでもない。
実態が良く見えないからこそ、恐れの方が大きくなりすぎるのかもしれません。
動けなくなる前に、ノートを広げて、コピー用紙でも構わないので、自分のマイナスの出所を書きなぐってみてはいかがでしょう。
同時に、こうすればいい、こうなりたいも書き添えてみると、また新しい気づきも生まれようというものです。
「書く」ということには、大きな力があるのです。