音読には、盲点がある
こんにちは。
てらぴーだよ。
国語に限らず、音読する、今読んでいる文章を声に出して言うというのは、とても大切な学習法です。
おそらくすべての科目で取り組んだほうがいい。
けれども、音読は、実は意外と難しい、ということは、案外見逃されているのではないか、と思えてならない。
なぜなら、「音読しよう」の掛け声だけで済ませているから。
「音読してごらん。」「音読すればいいんだよ。」「音読を取り入れてみよう。」などと言われても、すぐに音読はできません。
優秀なお子様ならともかく、いいえ、優秀なお子様でも、意外とおできにならないのが、音読なのです。
音読は、一人ではできません。
どのような文章でも、算数・数学の短い文章題でも、指導者が聞いてあげることが必要です。
まず指導者が読んでみるという先導がなされるのなら、こんなに効果的なことはない。
国語という科目が軽視される大きな原因は、「日本語で書かれているので、そこそこ読める」というところにあると思っています。
でも、読めない。
正確に申せば、いわゆるできる生徒でも、意外なほどに、声に出して読むことができない。
発語のことを言っているのではありません。
単純に、見ている文字を声に出す、ということを言っているのです。
長文ともなれば、「読めない漢字」が出てきてもおかしくない。
でも気づかない、もしくは、無視される。
もしくは、「にょごにょご」言われておしまい。
ですから、どこかの国の副総理よろしく、読めない漢字を抱えたまま、人は大人になるのです。
マスコミの最前線、某テレビ局のアナウンサーと言えば、1流の大学を出ているはずですが、その方は、社会人になるまで、「淡々と」を「あわあわと」と読んでいたと告白してました。
たぶん、こうした事例は、特殊なものではない。
てらぴーも含めて、誰もが、広く使われてはいるけれども「読めない、あるいは読み間違えている漢字・熟語」を持っていたりするのです。
基礎学力を形成途中の小学生・中学生ならなおさらです。
以前指導していた生徒(中3)で、「行う(おこなう)」が読めない生徒がいました。
どうするかというと、送り仮名の「う」に合わせて、「ならう」などと読むのです。
こうした事例を山ほど見てきました。
ここで大切なことは、生徒の責任ではない、ということです。
見逃されてきたことが、問題なのです。
ですから、生徒に音読させるだけでは不十分。
必ず指導者がそばにいて、聞いてあげなければならない。
あるいは、読み合わせをしなければならない。
てらぴーが音読の指導をするときは、国語の文章なら、一行ずつ同じ行を読んで読ませてとするか、やはり1行ずつ交代で読んでいくというやり方をとってます。
先生が読む時間が長いとだれますし、生徒にずっと読ませるのも、集中力が低下します。
1行ずつ読んでいけば、読めない漢字も見つけやすいし、適度な緊張感があります。
次に読むときは、読む行を変えると、全文を読んだことになる。
読めない漢字・熟語には、すぐに鉛筆でルビを振らせます。
こうした取り組みが、音読の力を育んでくれるものと信じています。